1. 五十音図の空欄と「え」と「エ」

あ行のえとヤ行のエ

 表1はみなさまよくご存知の五十音図です。
 五十音図を眺めた時、ヤ行の「い」と「え」の段、そしてワ行の「い」と「う」と「え」の段が、それぞれア行の仮名の繰り返しとなっていることを不思議に感じたご経験がおありの方、結構いらっしゃるのではないでしょうか。

 現代の日本語にはワ行の「い」や「え」にあたる音、「うぃ(wi)」や「うぇ(we)」が存在せぬため、それらを表すための文字が使われることもありません。従って五十音図の該当個所は空欄、もしくはア行の仮名の繰り返しとなっているのが今日では普通です。
 しかし昔の日本語には、「うぃ」や「うぇ」にあたる音が存在したため、当然それらを表す仮名も存在しました。それが、今も百人一首などでたまに見かける「ゐ(=うぃ)」と「ゑ(=うぇ)」です。

 今日の日本語では、「そこに誰々がいる」の「いる」も、「何々が要る」の「いる」もまったく同じ音ですが、昔の日本語では「誰々がいる」の「いる」のほうは「ゐる」、つまり「wiru(うぃる)」と発音されていて、「要る(いる)」とは違う音であったのです。

 これら「い(i) ←→ ゐ(wi)」「え(e) ←→ ゑ(we)」、そして「お(o) ←→ を(wo)」の発音上の区別は、遅くとも鎌倉時代が終わる頃までには崩壊してしまっていたと考えられています。
 しかしその後も文字として書き表す時だけは依然として区別されつづけ、この慣習は第二次大戦後、仮名の表記法が改められるまで続いてゆきました。
 いわゆる「歴史的仮名遣い」とか「旧仮名遣い」とか呼ばれるものです。

 では現行の五十音図に、今は使われなくなった「ゐ」と「ゑ」の二文字を加えてみましょう。表2のようになります。

 現行の五十音図に比べれば、該当文字のない箇所が少なくなってはいますが、それでもまだヤ行の「い」と「え」、ワ行の「う」の計三カ所が「該当文字なし」で、ア行の繰り返しになっています。
 でははたして日本語の歴史上、

 これらの発音が区別されたことはあったのでしょうか。

 結論から言えば上二つの区別がされていたことは、どうやら日本語史上なかったようだと考えられています。どの文献からもア行のイとヤ行のイ、ア行のウとワ行のウとが区別されていた形跡が見つかっていないためです。
 しかしア行の「え /e/」とヤ行の「え /je/ =いぇ」については、奥村栄実という江戸時代の学者が記した『古言衣延辨(こげんええべん。『古言衣延弁』とも)』という本によって、少なくとも十世紀中頃までは発音しわけられていたことが明らかにされています。

 では、なぜ歴史的仮名遣いには、ア行の「え」とヤ行の「え=いぇ」との区別が反映されていないのでしょうか。
 考えられる理由としては、

 などが挙げられますが、要は歴史的仮名遣いの制定に関わった人たちが、誰もア行のエとヤ行のエとが昔は発音しわけられていたことに気づかなかったというのが、もっとも大きな理由といえましょう。

 いわゆる“万葉仮名(万葉がなとも)”によって日本語が記されていた時代、ア行の「え /e/」は、“衣・依”などの漢字によって書き表され、このうち「衣」が今日のひらがな「え」のもとになりました。
 同様にヤ行の「え /je/」は、“江・延・曳”などの漢字によって書き表され、このうち「江」が今日のカタカナ「エ」のもとになりました。
 つまりカタカナの「エ」という文字は、元はア行の「え」ではなく、ヤ行の「いぇ」を表していた文字なのです。

表3 あ行のえとや行のえの仮名文字例
ア行の「え /e/」ヤ行の「エ /je/」
万葉仮名

愛(*2,*4,*7)・亞(*2)・埃(*4)・哀(*4)・衣(*6,*7,*8,*13,*14,*15,*16)・依(*7)

荏(*2,*12)・得(*7)・榎(*7)

叡(*1,*4,*7,*11)・延(*2,*4,*5,*7)・鹽(*3)・曳(*4,*5,*7)・要(*7,*15)・遙(*7)・縁(*8)・睿(*9)・裔(*15)

江(*2,*4,*7,*8,*9,*11,*12,*13,*14,*15,*16)・枝(*2,*4,*7,*10)・兄(*7)・吉(*7)・柄(*7)

ひらがな 「え」(「衣」の草書体に由来)
Unicode: U+3048
例:「江」の草書体に由来する字
「ヤ行の江」のひらがな
『広辞苑』の「あめつちの詞」より
Unicode: U+1B001(2010年秋以降)
カタカナ 例:「衣」の最初の三画からなる字*2
「ア行のえ」のカタカナ
築島裕『平安時代語新論』東京大学出版会・341頁より
Unicode: U+1B000(2010年秋以降)
「エ」(「江」の右側に由来)
Unicode: U+30A8

 もし、いろは歌にア行の「え」とヤ行の「エ」の区別が織り込まれていたなら、または歴史的仮名遣いの制定に関わった人たちがヤ行のエの存在を考慮に入れていたなら、きっと歴史的仮名遣いの五十音図は表4のようになっていたことでしょう。

表4 ア行のえとヤ行のエとを区別した五十音図

もしもの50音図ひらがな もしもの50音図カタカナ

注釈

参考資料

Valid XHTML 1.0 Strict