ラテン語聖書 (Vulgata) に現れる固有名詞を、「ラテン語の古典式発音による表記」「同・教会式発音による表記」「日本のカトリック教会の伝統的表記」の3つで比較したのが次の表です。
ラテン語表記 *1 | 古典式 ラテン語発音 |
教会式 ラテン語発音 |
日本のカトリック 教会の伝統表記 *2 |
---|---|---|---|
Jēsus (別綴:Iēsus)*3 |
イエースス | イエズス | |
Marīa | マリーア | マリア | |
Jōsēph | ヨーセーフ | ヨゼフ | |
Petrus | ペトルス | ペトロ | |
Andreās | アンドレアース | アンドレアス | アンドレア アンデレア |
Jacōbus (Zebedaeī) | ヤコーブス (ゼベダエウスの子の) |
ヤコブス (ゼベデウスの子の) |
ヤコボ (ゼベデオの子の) |
Jōannēs (別綴:Jōhannēs) |
ヨーアンネース (ヨーハンネース) |
ヨアンネス (ヨハンネス) |
ヨハネ |
Philippus | ピリップス | フィリップス | フィリッポ *4 |
Bartholomaeus | バルトロマエウス | バルトロメウス | バルトロメオ |
Matthaeus | マッタエウス | マッテウス | マテオ |
Thōmās | トーマース | トマス | トマ |
Jacōbus Alphaeī | アルパエウスの子 ヤコーブス |
アルフェウスの子 ヤコブス |
アルフェオの子 ヤコボ |
Simōn Zēlōtēs (Chananaeus) |
ゼーローテースの シモーン |
ゼロテスの シモン |
ゼロテのシモン |
Thaddaeus / Judas Jacōbī |
タッダエウス | タッデウス | タデオ |
Jūdās Iscariōtēs | イスカリオーテースの ユーダース |
イスカリオテスの ユダス |
イスカリオテの ユダ |
Mathiās | マティアース | マティアス | マティア |
Paulus | パウルス | パウロ *5 | |
Marcus | マルクス | マルコ | |
Lūcās | ルーカース | ルカス | ルカ |
Ādam | アーダム | アダム | |
Hēva (別綴:Ēva) |
ヘーワ (エーワ) |
エヴァ | エワ |
Nōē (Nōë) (別綴:Nōa) |
ノーエー (ノーア) |
ノエ (ノア) |
ノエ |
Mōysēs (別綴:Mōsēs *6) |
モーイセース (モーセース) |
モイゼス (モゼス) |
モイゼ |
Dāvīd | ダーウィード | ダヴィド | |
Jerusalēm *7 | イエルサレーム | イエルザレム | エルザレム *8 |
外来語中の YE (/je/) という音に対するカタカナ表記には「イェ」「イエ」「エ」の3種類がありますが、前掲の表では「イエ」で統一しました。
余談になりますが、これらのうち「イェ」というカタカナ表記は比較的新しいもののようです。"Jesus" や "Jerusalem" などの語は日本に入ってきた時代がもう少し遅ければ、「イェズス」「イェルザレム」のように「イェ」を使って表記されていたかもしれません。
かつては外来語の中に「子音+L/R+母音」という音の並びがあった時、最後の母音をL/Rの前にコピーしてきて「子音+母音+L/R+母音」という形に変形して仮名表記されることがありました。「ガラス(オランダ語 glas より)」「キリスト(ポルトガル語 Cristo より))」などはこの代表的な例です。
この表に出てくる「アンデレア(Andreās)」という表記もこの流れを受けたものと考えられます。
日本のカトリック教会が伝統的に使ってきた訳は概ね教会式発音に準じていますが、よく見ますと細かいところで差異があります。次のようなルールの存在が読み取れます。
1類名詞は主格をそのまま。Maria(マリア)。ギリシア語に由来する男性名詞は主格語尾 (-as, -es) に付いている-sを落とす(ラテン語化?)。Andreas(アンドレア・アンデレア)、Thomas(トマ)、Zelotes(ゼロテ)、Iscariotes(イスカリオテ)。
2類名詞は主格の語尾-usを-oに置き換えた形を用いる。Petrus→Petro(ペトロ)、Paulus→Paulo(パウロ)。
3類名詞は主格をそのまま。Joseph(ヨゼフ)。ただしJoannes(ヨアンネス)は「ヨハネ」。これは別の綴りであるJohannes(ヨハンネス)に由来するものと思われる。語尾の-sが落ちたのは、同じ-esなので1類の男性名詞のケースに準じたものか(旧約聖書に出てくるMoysesも同じ語尾のためかやはり-sが落ちて「モイゼ」となっている)。
4類名詞は主格をそのまま。実質的にJesus(イエズス)の1語のみ。
5類名詞は例なし。
同じ子音が2つ連続している箇所にも促音表記(ッ)や撥音表記(ン)は使われぬ傾向あり。Matthaeus(マテオ)、Taddaeus(タデオ)。Jo(h)annes(ヨハネ)。一方で Philippus(フィリッポ)のように促音表記が使われている例もある。この違いは何によるものか不明。
人名の他にも、アラム語由来とされる Abba(アバ)、地名である Thessalonice(テサロニケ)、普通名詞の missa(ミサ)などに、促音表記なしの例が見られる。
2類名詞の語尾を-usから-oに置き換えたのはロマンス語(ラテン語の子孫。イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語など)の影響が考えられます。近代以降、日本に宣教にやってきたカトリック系修道会にはロマンス語圏出身の人がそれだけ多かったのかもしれません。
ラテン語 "Jesus" の読みとしては次の2通りがあります。
しかしお気づきの通り、現代の日本でもっとも広まっている呼び方はこのどちらでもありません。はたしてイエスという表記はJesusの最後の子音を落としたJesu-から来たのか、あるいは音節を丸ごと落としたJes-からなのか、そもそもなぜ最後のほうを落とす必要があったのかも一切不明です。
一説には "Jesus" の漢語表記「耶穌」を中国語読みした「イェースー」が、プロテスタント系宣教師によって日本に持ち込まれたものとも言われているようです。とすれば実はラテン語どころかその子孫であるロマンス語ともまったく無関係ということになります。
カトリック系が用いてきた「イエズス(ラテン語 Jesus の教会式発音に基づく)」や、正教系が用いてきた「イイスス(ギリシア語 Ιησους = Iesous の中世ギリシア語発音がルーツ)」を差し置いて、よりにもよってもっとも由来のはっきりしない言い方が日本では一番幅を利かせてしまっているわけですが、ただ少し前まで英語風に「シーザー」と呼ばれることの多かった Caesar は、今や古典ラテン式に「カエサル」と呼ばれることも増えてきました。
ちょっとしたきっかけで、ラテン語 Jesus も表記通りに「イエスス/イエズス」と読まれることのほうが多くなる日が来ても不思議ではありません。
ちなみに中世末期~近世初頭のキリシタン文献(『ドチリナ・キリシタン』など)では、Jesus は「ぜずす」と表記されています(参考)。これは Jesus のポルトガル語読みを音写したものです。当時の日本語は「ゼ」を [ʒe](ジェ)と発音していたため、「Je→ゼ・su→ズ・s→ス」と仮名表記されたものです。しかしこの読み方は明治以降には受け継がれなかったようです。
※ 紀元頃のヘブル語では「イェシュア」のような発音であったとされ、これが後にアラム語を経由してギリシア語「イェースース (Ιησους)」となり、さらにラテン語「イェースス (IESVS, JESUS)」となった。
綴りの上では「イェシュア」の古形「イェホシュア」も保存されていて、こちらからは「ヨシュア」という短縮表記(「イェホ‐ [jeho-]」→「ヨ‐ [jo]」)が後に派生した。
ラテン語で -aeus 型の語尾(ギリシア語の -aios に由来)を持つ固有名詞は、ここ最近日本のキリスト教界隈においては語尾を -aeus から -ai に置き換えてカタカナ表記されるケースが増えているようです。
例えば12使徒の Matthaeus, Bartholomaeus, Thaddaeus は、以前のカトリック系書物には「マテオ・バルトロメオ・タデオ」と表記されているのに対し、最近のものは "-aeus" の部分を "-ai" に置き換えた「マタイ・バルトロマイ・タダイ」のような表記になっていることが多いようです(仮名表記では語尾が「-エオ」から「-アイ」に変わるという形で現れている)。
また "Hebraeus" も -aeus 型語尾だけあって、以前の書物には「ヘブレオ語・ヘブレオ人」のように表記されているのに、最近のものには「ヘブライ語・ヘブライ人」と書かれていることが多いようです。
このうち12使徒のケースに限っては次のような理由が想像できます。即ちこれらの人名は大元のヘブル語やアラム語の段階では -ay, -ai という「‐アイ」型の語尾だったものが、ギリシア語化された段階で -aios という語尾になり、そこからさらにラテン語化された結果、-aeus という語尾を持つに至った――そのため前掲の表記は、大元の発音に基づいたものという理屈なのかもしれません。
ただ聖書に出てくる固有名詞は、必ずしもすべてがヘブル語なりアラム語なりに遡れるとは限らず、中にはギリシア語由来のものも少なくないようです。
固有名詞の仮名表記というのはいつの時代も難しいものではありますが、聖書に由来する固有名詞を読み上げたり仮名で表記したりする時は、「ラテン語の主格形(発音は教会式または古典式)」「ギリシア語(コイネー)の主格形」のどちらかに統一したほうが一貫性があり、すっきりして良いのではないかと思われます。