今回も引き続き『口語法調査報告書』の考察です。この資料の概要および地名が指し示している範囲については「1903年の京都語1~助動詞『どす』」をご覧ください。
京都では、遅くとも近世期までには「中立的なイル」対「卑語的なオル」という構造が出来上がっていたことが、この時代に書かれた洒落本などの用例から分かっています(参考・「いる」と「おる」にまつわるよくある誤解)。
「いる」と「おる」に関しては『口語法調査報告書』でも、第19条で次のような調査を行っています(要約)。
この質問に対して、当時の京都市はこう回答しています。
「サシテヰル」「ウケテヰル」ト云フ語ハ一般ニ用ヰラレ之ヲ又「サシテル」「ウケテル」トモ云ヘド「サシテオル」「ウケテオル」ナド云フ語ハ行ハレズ随テ「サシトル」「ウケトル」「サシチョル」「ウケチョル」ナド云フコトナシ但シ「サシテヰル」ハ「サシテル」ノ外又「サイテル」トモ云フ
要約しますと、明治36年頃の京都では「指している・受けている」は一般的で、これを「指してる・受け取る」と云うこともあるけれど、「指しておる」「受けておる」などという言葉は使われず、従って「指しとる」「受けとる」「指しちょる」「受けちょる」などと云うこともない、と報告されています。
ちなみに最後の「『指している』のことは『指いてる』とも云う」という文ですが、このような「指して→指いて」のごとき変化のことを「サ行イ音便」といいます。サ行イ音便は中世には盛んに使われたものの、近世に入る頃には衰退を始め、近世後期の京都では「指す・刺す・差す」に限ってだけ使われるようになっていました。
現代でも年配の方の中には「傘を差いて」のような言い方が化石的に残っていることもあるようです。
この「~ている」「~ておる」に関して、当時の京都府内の郡は次のように回答しています(括弧内は現在の大体の市区町村名)。
大まかな傾向として、当時の京都市(今日の上京区・中京区・下京区・東山区に大体相当)の北方には「とる」を使用する地域が広がり、宇治川の南側には「ちょる」を使用する地域が広がっていたことが分かります。